年月日不明 昭和37年?
                     末永静行 テープ№3Ⅹ-001-A-2




世の中には恐いものはないのだけれども、やはり、恐い物は恐い、私は十二、三年前だったでしょうか、田主丸の共励会に以前は私が二、三年ぐらいは一緒に回りました時代がございましたですね。あの時分に田主丸で、何でしたかね、何でしたかね、生きるかちびすかあの両綱領が流行った時があったですね、もう日病院にたくさんの人が担ぎ出されたんです、私はむつやの二階でお話をしておりました、あの広い二階もいっぱいでしたですねあの当時は、で、あの時、私は今から考えてみてようあんな無茶苦茶なことを言ったと思ったけれど、こちらもその時分恐い物がないというときなもんですからね、私の話を聞いてくださってから皆さんが本当に信じて行じて下さるならばね、私が皆さんの前で例えば生きる金と言うたでしょうか、ちびす金と言うたでしょうか、皆さんの目の前で私は何でも見せていいていうたことがあった。というほどに、例えば私の前にはもう生きる金もなければ、ちびす金もなかったんですよ。
それがやはり段々おかげを頂きまして今日に至ってからやはりそれが育ってきておるとこう自分で思います。ね。この世の中には実を言うたら恐いものはないんだけれども、恐くないものを恐いと思う、恐いと思っておったのは私共に神様が力を与えて下さろうとする御真意、御深慮以外にないということ、どうでしょうね私達の行くてにです、恐い物がないということであったら、ね、こんな素晴らしい私は生涯はないと、恐い物ない生活ですから、まあ、それを引っくり返して言えば安心の生活という事になるでしょう、ね。
幽霊の正体みたり枯れ尾花、恐いように思うておる、実際に側に行ってみるとある物は神愛のみであるという事、ね、神様が私共に力を与えて下さろうと言う神の愛に以外にはないという事、側へ行かず見て手前のほうから見るから、こう、例えばですね、枯れ尾花がおいでおいででもしておるように、例えば夕方なら夕方、夜なら夜にです、後ろをこうやって動いておるもんだから、それが幽霊かと思うとったという事なんです、ね、幽霊の正体見たり枯れ尾花。
今日、古賀先生が頂いております、いろいろ頂いておられる、それを見舞わせたんですけどね、後からして字に書いてから見せて頂きたいと思うんですけれど、その中に幽霊という事があった、その幽霊と言う物はどんな字が書いてあったかというと、勇ましいでしたかね、勇ましい礼ですか、礼というのは御礼の礼と書いて、ね、私はもうこれは本当に神様が教えて下さる事は素晴らしい事だなあとこう思うんですね。
今日、私共は親教会から帰らせて頂いてから、今日総代さん方が二、三人ここでお話を致しております、その事のご返事のようなことだったんですもうそのことが、してみると、その勇礼でさえ行けばです、これは勇礼に違いなんですけれども、恐い事はないんですね、不安はないんです、この心掛け、この心持で行ったら、なるほど、その、いうなら、矢でも鉄砲でももってこいと言う度胸が出来るのだ、ね。
私達が恐い物のない(      )ですね、恐い物のない生活というか、そう言うおかげを頂けれる為にどうでも心がまず明るうならにゃいけません、心に光が与えられなければいけません、暗いから恐いのです、ね、いわゆる、心に光はどうでも必要、ね、例えばこれから勿体島までちょいと私共は子供の自分にタバコを買いに行ってくれなんて言われると恐かった、ね、けれどもその懐中電気ば持って行くと恐くなかった、先がはっきり、何がある、向こうから何がきよるか分かるからなんですよ、ね、私共は明るいもの光をもっておると恐くないのです、正体が正体はっきり分かって来るからです、どうでも、やはり私共は光を頂かなければいけない、同時に力をいただかなけばならない、光だけじゃいかん、本当にこうやった力のつよかでやってきいきよるかも知れんこちらよりも、だからそれにも絶対勝てれるという自信のつく力を頂かなければならん。
あれは、あの、四神様のお話の中にございますね、ある先生にこの世の中で一番恐い物はなんと思うかち、確か桂先生だったでしょうかね初代の、そしたら先生お答えになった、そうでございますな、まあ、世の中で恐いといいや、やっぱり地震、雷、神、親父と昔から申しますから、やっぱこれ四つが一番恐いでしょうって言うてから申し上げたんですね、そしたら、四神様が仰った、「それも恐い、けれども一番恐いのは徳切れじゃ」と仰った、ね、「徳が切れるとね、白いものが赤う見えてくるようになる」と仰った、徳が切れてくるようになるとね、いわば、赤い物が白い見えてくる、白いものが赤う見えてくるようになる、悪い事を悪いと思わんようになるという、それが一番恐いと仰った、ね。
私共がですね、やはり信心を何々頂きよりますと、いわゆる、その、度胸もないのに、力もないのに、光もないのに恐いものなしと言うような気持ちが起こる時がある、そう言う時が、言うならば、だから恐い時なのである、信心はこの神様は有り難い神様だなと分かると同時にこの神様は恐い神様じゃと分からにゃほんなこっちゃじゃないと神様は仰る、ね、有り難い神様という事が分かるという事と同時に恐い神様であるという事が分からなければならん、そこで自分のです、本当にそう言う力を頂いて安心しておるのか、恐い物ないというておるのかどうかという事をいつも確かめとかにゃいかん。
例えばね、柔道なんかのいよいよ強い人になりますともう四段も五段もという事になってまいりますとですね、非常に用心深うなられるという事ですね、私共の何も知らない者はそれこそ平気で通っておる、けれども、柔道が強くなる四段も五段もと言うようになるとですたい、いつどこからどういう外敵が現れてくるやら分からない、とても危なうしてから懐で(        )寒かったっちゃ、いつ後ろこからぱっと早じめに締められたらもうそれでお終いなんだから。
剣道の達人といわれるようになるとですね、道を歩くでも心掛けて通る、心がけが非常に細かになる、例えば曲がり角でもする時にも決して近道でもして曲がるような事はない、もう出会いがしらにぱっと傷つけられたもうお終いだからという、必ずこの内回りをせずに外回りをするといわれております、心掛け。信心もそうです、だから、私共がです、そう言うような心がけというか、言うなら、薄氷の上を渡るような気持ちで信心の稽古をさせて頂き、でいて、いつどう言う外敵が来ても勝ちうるところの信念というか、自信と言うものが、まあ、自信というじゃなくて信念でしょうね、いわば、でけてきて初めて恐い、恐いものはなしという事になってくるじゃないでしょうか、もう神様さえもうおかげ頂いて、もう神様さえ頂いとりゃ安心でございますとなんて人があるけれども、これは私は大変な安心だと思う、ね、神様を頂いて本当に安心するという事は、神様が恐い、神様が有り難いと、その両面が分からせて頂いて、同時にその恐い神様に対するところの私共の慎みの態度と言うものがいつも絶えず柔道のそれじゃないけれども、剣道のそれではないけれども、そのぐらいに私共が心掛けというものが緩んでいない時こそ、いうならば、まあ安心だという事が言えれるのじゃないでしょうか。ね。
私共は恐くもないものを恐いと思うておる時がある、私は妙なものが恐かったんです子供の時には、今でもそうですなんですけれどもね、子供の時も面白かってんですよ私。私はあの火箱が恐かったんです、こう、泥で作った火箱があるでしょう、穴がほげた奴が、婆が私をこう連れて回るんです、遊びに連れて回るんです、で私が用心深いもんだからいっぺんこうやって部屋の中を見て見回すそうですよ、そして田舎ではようお座敷の隅の方においてあるですもんね(         )、また、押入れの中に入れてないとですたい、それがあると絶対私は中に入らんのです、またこれが恐い寄せよるけんどうせ泣いちからのうち、言うてから火箱ば押入れの中に入れなければ私は中に入らなかった、なぜあれが恐かったっち、あれはたくさんその目がついておる訳なんですね、丸い穴がついとる訳ですよ、だからもうたくさん目のついとるとが目があそこにおるから入らんち私は言い寄ったというて、後でかすかに覚えております。
正月の餅つきなんかありますとですね、まあ、いっぱい小餅を並べてあるでしょうが、そして、私が面白がってその餅を穴が開けてる訳ですたいね、そすと、総一郎があんな事をするけんで火箱ば真ん中にもってけえちいうてから、父がいい、火箱ばおいてあったのを覚えております。ちょいとおかしいでしょうが、皆さん笑いよんなさいますけれどもね、皆さんも私が子供の時に火箱を恐がったようにです、火箱よりもっと恐くないものを皆さんは恐いと思うておられるという事ですよ、ね。
だから、自分が成長してみるとあんな恐くもないものが恐かったというておかしいぐらいなんですけれども、ね、私共がやはり恐くもないものを恐いと思うて顔色を変えよる、そこに、自分の信心の成長不足を感じさせて分からせてもろうて、ね、もう先生もう大変な事が起こったというてやってくるでしょう、で私は心の中では一つも大変な事ではないと思っておるけれども、大変なことじゃないというたら返ってから腹かくと思うてから、あーそうですかちいうてから、まあお取次をさせて頂きますけれどもね、そう言う時にはやはりおかげを頂きます、けれども私も一緒にです、それはどうするかと言うてたまがるような時にやっぱいかんですね、だから、もういよいよ取り次ぎの者というものはどのような物がどっこいやって参りましてもです、それがどっこいと受け止めれるだけのやはり力を頂いとかないけないという事を感じます、ね。
私達が火箱を恐いと言うておるより以上におかしく、その、恐いもないものを恐いと思うておるようなことはないだろうか、ね、それは私共の信心が成長してないからである、ね、恐くもない、いわば、そこまで行っても見らずに、あそこには幽霊がでるのお化けがでるのと言うて言うようなことはないだろうか、側まで行ってみなければ、度胸を吸えて側まで行って見るとこれは幽霊でなかった、枯れ尾花であったという事が分かるのである。ね。
そう言う私共がね、そう言う信心を対象として信心をしていかにゃいけないということ、ただ神様ば、あの、あそこだけが対象じゃいけないという、ね、自分の心に不安がある、心配がある、このぐらいな事が心配になる自分だ者ね、このぐらいが不安でたまらない自分だ者ね、そこでそういう訳にこう言うようなものが恐いのか心配なのという事を分からせてもろうて、なるほど、ここにこういうそれが心配になる元が分かって来るのです、ね。
そうでしょう、これは、まあ、極端な事を言うならばです、自分がずるいことをしておる、こすいことをしておる、ね、さぁーこっちの人が、その、あらっ自分のがなくなったとか何とか例えば言おうとするとするか、もうとったことなかけん分からんけれども、そんなもんじゃなかろうかと思うんですよ、もういつ分かるじゃじゃろう、いつばれるじゃろうか分からん、それが不安なんです、ですから私共がそう言うようなものを取り除かせて頂いたら、いつ誰が、ならのうなったと言い寄っても不安もなんもないでしょうが、そんなもんです。
心配になる、不安になると、というのは心配になる元がある、不安になる元がある、そう言うものに取り組んでそれを取り除いて行く事に精進させてもらう、そこに、いよいよ与えられる物は心の光である、喜びである、ね、明るうなってくるのである、そこには恐い物はないという、ね、夜は恐いけれども昼は恐くないというのはそう言う訳、いつも自分の心の中にです、例えば夜でも十ぐらいなお月様が輝いてござるような光、明るさと言うものが自分の心の中に頂けていけるような信心、そう言う信心を一つ頂かにゃいけない。ただおかげを頂かにゃいけないと言う事が焦点ではなくて、そういう信心を頂かなければいけないという事が焦点でなからなければいけないと思うね。おかげを頂かなければ。